田嶋章二町長に聞く「『天草の古都』苓北町の歴史と文化」(1)
田嶋章二町長に「天草の古都」である苓北町の歴史や文化について聞いた。
苓州=天草の中心だった我がまち
―苓北町の歴史からお聞かせください。
苓北町は数百年にわたって東シナ海から有明海への出入口として栄えました。特に1205年からの約400年間は志岐氏が統治し、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎えました。
かつて天草全島は「苓州」と呼ばれていましたが「苓」とは「甘草(あまくさ)」を意味し、苓州の北部に位置することから「苓北」と名付けられました。正確な記録としては残っていませんが、この地でアマチャヅルのようなものが採れたのでしょう。
1566年、天草で初めてキリスト教の布教が苓北の地で行われましたが、現在の苓北町役場庁舎はそうした苓北町の文化や歴史を知った上でコンペに出された黒川紀章さんのデザインによるものです。シンボルタワーは教会の尖塔を思わせるつくりで、建物は白を基調にした穏やかな丸みを帯びた外観になっています。ロの字型に配置された中庭は、南蛮人宣教師のふるさとを感じさせます。
コンペには多くの設計士に関わっていただきましたが、黒川紀章さんだから選んだのではなく、苓北町に最もふさわしい造形だったので選考委員は諸手をあげて黒川さんの作品を選びました。
―天草・苓北を語るには島原・天草一揆を抜きにはできないですね。
徳川時代には肥前唐津藩が天草を支配し、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって1602年ごろ、富岡城が築かれました。その後、島原・天草一揆が起こり、富岡城は幕府側の拠点として天草四郎率いる一揆勢1万2千人の攻撃を受けますが、落城しませんでした。落城しなかったことが一揆後の徳川政権の安定をもたらしたと言われています。
歴史に「もし」はないとのことですが、もし一揆勢が勝っていたら、九州はスペインやポルトガルの植民地になっていたかもしれない、という説もあります。連戦連勝できた一揆勢でしたが、ここで富岡城を落とすことができず、彼らは退散するとき「これで四郎さまの神通力もついえたか」と落胆のなかで坂瀬川から海を渡り、原城に集結しました。これは幕府側の思惑通りで、原城に集結したことが戦いの終わりだと読み、徳川に関わる武将の団結を図り、見事成功するわけです。
―一揆は徳川政権の安定に役立ったということですが、その後の苓北については。
一揆の終了後、築城の名手と言われた山崎甲斐守家治が大規模な修復と拡張を行い、現在の富岡城の形を完成させました。やがて天領になった天草は初代代官・鈴木重成を迎え、戸田忠昌の城主の時代を経てやがて城は廃城となりましたが、天領として天草の行政の中心となりました。
→田嶋章二町長に聞く「『天草の古都』苓北町の歴史と文化」(2)へ続く
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