"ハンサム・ウーマン"新島八重とは
幕末から明治を生きる
八重は1845年、会津藩砲術師範、山本権八と佐久の娘、6人兄弟の3女として生まれた。お転婆な少女で、13歳の時には四斗俵(約60キロ)を肩まで4回上げ下げすることができたという。
会津武士の家に生まれた子どもたちは、ひきょうな振る舞い、弱いものいじめなどを戒める「什の掟」と呼ばれる子弟教育7カ条を指針に育てられる。「ならぬことはならぬものです」に代表される会津人気質は、こうして幼いころから培われる。
八重は節義を重んじて、粗衣粗食を常とし機織りなどにも励む。しかし、砲術にも興味を持ち、兄・覚馬に洋式砲術を習い、人に教えられるほどの知識と技術を身につけていた。
1868年、戊辰戦争が勃発すると、八重の弟・三郎は京都の戦いで命を落としてしまう。政府軍が会津に迫ってくるのを知った八重は、鳥羽伏見から返ってきた弟の衣装を身にまとい、七装式のスペンサー銃を担いで鶴ヶ城に入城。籠城戦に参加し、得意の鉄砲を使って戦う。
しかし、9月22日、会津藩は政府軍に降伏。八重は、鶴ヶ城三の丸にあった雑物蔵に「あすの夜は 何処の誰か眺むらん なれし御城に 残す月影」と会津への万感の思いを和歌に刻んだ。
戊辰戦争後、覚馬を頼り母と姪とともに京都へ出た八重は、1875年、覚馬と交流のあった新島襄と出会い婚約。同年、襄と覚馬とともに同志社英学校を開校し、これが現在の同志社大学の基礎となっている。銃を捨て知識という新たな生きがいを得た八重は、会津人としての矜持を捨てることなく、キリスト教や西洋文化も柔軟に受け入れる。そんな八重を襄はハンサム・ウーマンと称した。
八重は社会事業などへの貢献も積極的に行い、日本赤十字社の社員として働き、1895年の日清戦争、1905年の日露戦争に篤志看護婦として従軍した。
1932年、急性胆のう炎のため87歳で死去。京都の同志社墓地で襄の隣に眠っている。
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